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どくとるマンボウ仙台戦後日記(下)お金の大半は酒代に消えた--石沢友隆(郷土史家) | 河北新報オンラインニュース / ONLINE NEWS


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歩道にずらり並んだ屋台。当時の市民にとっては見慣れた光景だった=昭和33年、仙台市内

大火は江戸時代から

 卒業直前の昭和27年(1952年)1月22日の日記。

 「仙台銀座の昼火事、太田屋炎上、翌日皆で焼け跡整理に行ったところ、塀が倒れて来てシノハラさん脳シントウ」

 仙台銀座は青葉区南町通と東二番丁通角の北日本銀行支店のところにあり、いまは立派なビルや飲食店などが並び、「仙台銀座」の看板も見える。戦後間もなくこの土地に、外部モルタル塗りの集団木造建築物が即製された。防火壁もなく火災の危険を忘れた建物として防災の専門家から警告を受け、火災保険にも入れない物件だった。火事は強風にあおれられて燃え広がり、隣接商店も含めて24棟107世帯が焼失した。

 太田屋は北さんらのおなじみのバーで、二人のかれんな若い女性がいて、客の飲み残しのビールを持ってきてくれたという。

 仙台銀座だけでなく、仙台の中心部では大火が相次いだ。

 ▽昭和23年4月27日、現青葉区東一番丁の中央マーケットで62戸全焼。ここでは3カ月前にも92戸を焼失。▽26年4月22日未明、現青葉区二日町から出火、国分町、表小路、跡付丁まで延焼、89世帯が全焼、被災者403人。16メートルの強風が吹き、火災警報発令中だった。▽31年2月5日夜、現青葉区東五番丁、日之出映画館ボイラー室から出火して、地下劇場、ニュース劇場などを全焼、隣接の仙台ホテル、東宝劇場などの一部を焼失。火の粉は仙台駅や付近の商店街にまで飛んだ。

 最近、大火がないのは幸せなことである。仙台では戦後に限らず、江戸時代から昭和まで、大火事に悩まされた。大方は蔵王おろしの西北風が吹く12月から春先の3~4月に集中。大正8年(1919年)3月には中心部で700戸を焼く「南町大火」があった。

 戦後の戦災復興事業では、東二番丁通を従来の幅員8メートルから50メートルに広げ、防火帯の役割を持たせた。その上、沿道の建築物は鉄筋コンクリート造り以外認めないことにした。その上、中心部に鉄筋ビルが多くなったせいもあり、大火はなくなった。

 余談ながら現青葉区役所のところは市消防局で、望楼から四六時中、市内を見張っていた。高いビルが周辺に立ち並び、視界が効かなくなり、昭和40年代の初め廃止された。

ラッパ飲みしようとしたら酒ではなく醤油

 北さんは告白している。

 「仙台では、下宿代とわずかな本代を除き、ほとんどが飲み代に消えてしまった。高価な医書を買うからと父に無心して送られてきたお金が原資だった」

 松本高校時代はドブロクとひどい焼酎だった。仙台になると次第に酒の質も改善された。最初のころは下宿でコンパをしていた。やがて外で飲むことを覚える。もっぱら屋台で飲み、安バーともつかぬ飲み屋で飲み直した。屋台では知り合った大人がときどきおごってくれた。

 「あるとき、屋台でちびちび飲んでいると、その店に呼び出し電話がかかり、女主人は出て行ってしまった。私はこのときと思い、銚子を一息でラッパ飲みし、カウンター越しに手をのばしてそこにあった1升びんを取り、銚子にどくどくと注ぎ、これまたラッパ飲みしようとしたら、むせかえって吐き出した。酒ではなく醤油だったのである。酒と醤油を間違えるくらいだからよほど酔っていたのであろう」

 マンボウ先生、「全く浅ましい」と反省している。

 戦後、仙台ではとぼしい酒と食材を工面して、雨後の竹の子のように屋台が出現、その数480軒にも上った。屋台というと下町のイメージが強いのだが、仙台では大通りの通行頻繁な歩道に堂々と店を構えていた特徴がある。

 村上善男さんの『仙台屋台史』によると、中心部の仙台駅前、青葉通、広瀬通、東五番丁だけではなく、榴岡、長町、東北大学病院前、北材木町、北目町などの周辺部にも屋台が点在していた。

 昭和40年(1965年)、県、県警、仙台市の3者で「露店飲食店処理要綱」がまとまり、屋台の営業は一代限りと決まる。経営者が年齢を感じて「息子や娘に商売を譲ろう」と思っても、そうはいかない。次々廃業して、現在残っているのはただの1軒になった。東京の出版社が発行した仙台ガイドの本に「仙台で屋台が少ないのは仙台人の見えっ張りのせい」とあった。これ、とんでもない誤解で、本当はこのような規則のせいである。



仙台駅西口の青葉通から南方を望む。手前の交差点左角に日乃出劇場がある=昭和27年12月

戦後の仙台は映画館ラッシュ

 娯楽の王座は映画であった。テレビに押されて映画産業が衰退する昭和30年代末まで、全国どこの町に行っても―つや二つ映画館があった。東京や仙台では、いつ入場しても出ても自由、好きなだけ観賞することができた。館内でたばこをふかしても誰も文句を言わなかった。

 北さんの日記には観賞した映画の題名がたびたび出てくる。たとえば昭和24年(1949年)12月10日の項には

 「この日から『どん底』『たそがれのウイーン』『我等の仲間』などを観る」

 とあって、歳末にまとめて映画館に行っていたことが分かる。昭和27年11月14日の項には

 「二日酔いなので仕事中止し、『生きる』を観る。志村喬の『生命短し』を唄う場面は良かった」

 仙台の中心部にあった5つの映画館は、空襲で全部焼けてしまい、残ったのは周辺部の舟丁(現若林区)南街劇場と榴岡(現宮城野区)東宝公園劇場の2館だけ。南街劇場支配人の青木精一さんは「被災した市民を映画で応援しよう」と、空襲から半月後、山形市の映画館から新着映画のフィルムを借りて、3日間無料公開した。

 映画館再開の動きは驚くほど早かった。『仙台映画全集』(集団MISA発行)によると、敗戦から2カ月もたたないうちに、東七番丁(現若林区)で陸軍の訓練用グライダーを製造していた会社の倉庫を改修して青葉劇場が開館、年末には現青葉区錦町に木造一部2階の錦館が完成する。

 翌21年、仙台の中心部は映画館ラッシュとなる。1月、戦災で焼け残った仙台三越5階に東宝三越劇場が開館する。百貨店の営業時間中はエレベーターを使えたが、夜間の観客は非常階段を上下しなければならなかった。仙台駅前に移るまで3年間営業した。

 同年中に北松竹(北四番丁、邦画)、第一映画(東五番丁、洋画)、東一番丁に松竹直営の中央(洋画)と仙台日活(邦画)、南松竹(南町通、邦画)、日乃出(仙台駅前、邦画)が開館。翌22年に東北(本櫓丁、邦画、後に洋画)、23年には公共会館(東一番丁、後の東映)が開館した。現在残っている映画館はひとつもない。

 衣食住に欠乏し、インフレが進行する中で、映画は日常から離れ、ひとり夢を託すことができる時間であった。それだけではない。文化に飢えた人たちの心を豊かにする時間でもあった。



駐留米軍のキャンプがある苦竹は、仙台のアメリカ。周辺では米兵相手の飲食店が軒を連ねる

東北大学で「イールズ事件」

 北さんが仙台にいる間に日本は大きく変わった。医学部を卒業した翌月の昭和27年4月に講和条約が発効し、わが国は独立。併せて日米安全保障条約が締結されて「米国の核の傘」に入った。仙台に駐屯していた占領軍の撤退は日本では最も遅く32年(1957年)11月になってから。広範囲な地域を担当していた第9軍団の残務整理があったのだろう。

 絶対的権力を持つGHQ(連合国軍総司令部)は、占領後、新憲法制定、財閥解体、農地解放、婦人参政権、学制改革、家族制度など古い日本を次々解体し、新しい日本が生まれていった。ソ連(現ロシア)との冷戦が激化すると占領政策が変わり、日本の共産主義化を防ぐため、左翼団体を取り締まる政令が出され、国家公務員や会社員にレッドパージが行われた。

 25年(1950年)6月、北朝鮮が韓国に越境して来て戦闘が始まる。「朝鮮動乱」である。米軍を主体とする国連軍の支援を受けた韓国と、中国の後押し受けた北朝鮮が戦闘を繰り返すのだが、3年後、戦況は決定打のないまま終結。この動乱で300万人が命を落とした。このような悲劇の中で、日本は時ならぬ特需景気に沸き、復興がはかどった。

 戦争が始まると仙台では消防隊の仕事をしていた黒人兵が真っ先に姿を消したのを覚えている。米軍が接収して司令部として使っていた北一番丁(青葉区上杉)の仙台地方簡易保険局(現日本郵政グループ)は、米軍の病院となり、戦争で負傷した兵士が送還されてきた。戦死した遺体を本国に送る前に、きれいにする作業がここで行われ、日本人医師が高額の報酬で手伝った。

 占領中の昭和25年、東北大学で有名な「イールズ事件」が起きる。イールズ博士はGHQ民間情報教育局の顧問で、前年来日し、国立大学を回って共産主義教授の排除を勧告して歩いた。東北大学では、大学側の招待というかたちで5月2日、法文学部講義室でイールズの講演が始まったのだが、聴衆の学生らから「イールズ降りろ」「ゴーホームイールズ」などのヤジが激しく起きて、講演は中止された。

 占領軍は講演を妨害したとして警察に捜査を指示、市警は東北大学学生3人を逮捕、大学も退学3、無期停学4などの処分を発表、学生側は処分に反対して連日集会を開いて抗議を続けた。教授がレッドパージされることはなかった。

一度自分の頭でろ過してから

 「イールズ事件」は北さんが3年生のときに起きている。日記にはこの事件のことや、「朝鮮動乱」、日本の独立についても記述は見当たらない。いまでいうノンポリだったのかというと、必ずしもそうではなく、芥川賞の受賞作は、第2次世界大戦中のドイツを舞台に、ナチス政権が命じた精神病者への安死術指令に抵抗するドイツ精神科医たちの苦悩をテーマにした重い作品だった。

 北さんは書いている。

 「われわれの世代は、少年期に皇国不敗の信念に巻き込まれ、単純なひとつの考えを持たされて成長した。敗戦と決まったわずか一日で、それが根底から崩壊してしまう。裏切られ、呆然自失という体験を味わった。だから、どんな小さな考え方でも、一度自分の頭脳でろ過したものでなければ、容易に信じる気になれない。

 それは、イデオロギーについても同様で、いかに偉大な頭脳が生み出したイデオロギーでも人間がつくったもので、その中に果たして完全に埋没できるかどうかは疑問である」

 仙台を離れた後、慶応義塾大学病院に勤務。その後は長兄・茂太さんが経営する神経科病院に勤めるかたわら小説を執筆、芥川賞受賞後も『どくとるマンボウシリーズ』などで多くの読者を集めた。『楡家の人々』では、父を中心とする生家三代の命運を重厚な構成で描写した。中年以降は躁うつ症に悩まされながら、多くの小説やエッセーを執筆した。

 学生時代を振り返って

 「恐るべき無為な時間を費やしてしまったが、後から考えると、これらの無駄事もやはり必要であったように思える」

 北さんの仙台暮らしは、詩人から小説家北杜夫へと大きく転換する=羽化=のときであった。

 それにしても理解できないのはペンネームである。北杜夫の由来は恐らく北の都、杜の都からきているのだろう。とすれば、それは仙台ということになる。大好きな松本ではなく、いやいやながらやって来た仙台を連想させるペンネームにしたのはなぜなのだろう。卓球に熱中し、高校時代の学友と飲み歩き、ダンスに熱中し、パチンコに行くこともあった。仙台を去るとき、期待外れだった仙台の町は、忘れがたい場所になっていたのだろうか。

   ◇
 平成23年(2011年)10月24日、84歳で死去。前日昼食後、救急車で東京医療センターに入院。その一週間前には青山墓地で父母、兄の墓参りをしている。

[いしざわ・ともたか]1934年仙台市生まれ。元河北新報記者。著書は「よもやま探訪記『仙台人』気質」(2013年)など。

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